2012. 4. 10

第130(日)陶工、武末日臣(物心集)

「対馬は、これまで朝鮮へ属したことはなく、有史以来、日本である」という司馬遼太郎の一節に勇気づけられて、対馬へ渡りました。2006年の秋、ある陶工へ会いにいくためでした。対馬空港から最北端を目指し、レンタカーで1.5時間、比田勝という港に出ます。晴れていれば、韓国の南端都市、釜山が見えるところです。思えば、対馬は朝鮮半島と本土との連絡役を幾時代にも努めました。日露戦争の際には国の最前線として、砲台がいくつも建てられました。つまり、私達の領土の突端に値するところです。そんな場所への興味は司馬遼太郎も旅したほどですから、言うまでもありません。しかし、私が出向いた目的は、地理的歴史的な関心の以前に、その陶工の家に代々伝わる築200年の住宅を改築するためでした。人様の家を設計するとは、そこの住人と深くお付き合いするということですから、求む求めずにかかわらず、その人の、思いや希望や目的を知ることになります。武末さんは、施主さんという関係から始まりましたが、その後、単なる施主という相手ではなく、ものづくり、という視座を共有した、学ぶべき兄貴として接することになりました。
2007年、築200年の古家を大きく改装して以来、そこから5年経ちました。ヤキモノを製造するための場所を自ら開墾し、自力建設をはじめて、やはり5年が経っていました。登り窯あり、沢の冷風を愉しむ(京都のそれを模した)川床あり、対馬の伝統的な小屋と呼ばれる倉庫建築を移築し、それを茶室として仕立てた空間あり、互いの小屋を緩やかに仕切る生け垣あり、時には大工さんやその他の職人さんたちの手を借りながら、一人で作り上げた、不思議な場所が出来ていました。
自力建設の世界は私的でありながら、時には、世界に見染められるような普遍性にも繋がっていきます。例えばフランスのシュバルの理想宮は、シュバルという名の郵便配達屋さんが、自ら拾ってきた石ころを自ら積み上げて、いろんな国の様式的な建築を模して造っています。それからアメリカでは、ロサンジェルスにワッツタワーというこれまた、拾ってきたモノで建てられたタワー郡があります。サイモンロディアというブルーワーカーがある日思い立ち、やはり30年近くかけて、自力で自らの世界を構築した例です。日本では、高知市の沢田マンションという集合住宅が自力建設として有名でしょうか。いずれも、セルフビルド=自力建設とは、独自の私的な世界を造るものですが、それが秀逸になると、やはりそこに普遍的ななにか、人間の哲学のようなものを発するように思います。

さて、話はずれかかりました。対馬の北方の山中の、武末さんの私的世界、軋轢というようなものはないにしても、確かに島の人々からは、理解はされにくいだろうということを容易に想像されます。研ぎ澄まされた個性の立ち位置は常に危ういものでしょうから。しかし、同じものづくりの関わる者として、ものづくりへの関心が深い者にとっては、おそらくこの場所はとても愉快なところです。李朝時代の陶器の技術的再生を計る武末さんの作品の中には、当然のことながら、抹茶茶碗があります。彼の私的空間の一つは、彼が一人で抹茶を飲む空間でした。人様のために作るものを作り手が自ら確かめるというのは、当たり前のようですが、実は、そうでない場合が多い。自分は料理はしないが、鍋を工場で作っている、残念ながらそんなパターンです。武末さんは、まずは、自らが自らの茶碗で茶を点てて、飲むための空間を設けていました。そこには、朝鮮半島から求めてきた骨董が、絶妙のバランスで配置されています。織物のための木製道具、お菓子のための鋳型、お餅を供えるための専用台、壁掛け用燭台、銅鏡、家具、麻布のタペストリー・・・。小さなモノが点々としています。一言で言えばこキレイな骨董屋といった感じです。失礼、こギレイ、という言葉は相応しくないかもしれません。別のなにかが漂っています。品々は商売のネタではなく、自らの腕を磨くために、そこに只あります。商売のための外向きの室礼(シツラエ)ではなく、自らの修練のために置かれています。その場所は、確かに、人里から隔絶した場所にあります。そんな場所で、自らが教科書と定める古き良きモノモノと正面から対峙する、考えようによっては厳しい場です。彼が教科書としているモノモノ、彼が読み込もうとしているモノモノの背景のようなものだけが充満している。こギレイな骨董屋と異なる空気とは、むりやり言葉にするとそういうことなのでしょうか。教わるとは、先生から学ぶことがまず思い浮かびますが、無言のモノを凝視しつづけ、触り続け、モノから解読していくという学び方を、武末さんはこの私的空間で行っているのです。

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