2014. 12. 1

第153(日)施主友の会、紅葉と共に

昨日、雨のなか、紅葉狩りと称した、蕎麦打ちの会が行われた。場所は楽只庵。12年前に竣工した、私が独立してまもなくの小さな住宅兼書空間。話の発端は、恐れながら施主の方々。お施主さんのほとんど多くの方々はやはりというか、衣食住の「食」に対する意識というか関心というか、趣味そのものであったり、あるいは深く根ざした文化というべきか、それぞれのスタイルでありながらも、口の中に入るものに対する造詣の深い方々が多く、迂闊に蕎麦を打ちますなどと、知ったかぶりはいけないと心がけていたのであるが、有るとき、施主のKさんのお宅に呼ばれて、おごちそうを頂いた感の極みに乗じて、「最近面白い蕎麦<粉>屋を見つけたんです。」と口が滑ってしまった。その小さな綻びが大きくなって、今日の場が設定された。参加者はということで基本、私の施主さんの一部、そしてその友人知人。

蕎麦を打つのは、25、6才のころだったか、一人暮らしの年末、数名のモノ好きの友人達と、年越し蕎麦を食おう、ということになり、でも蕎麦屋に食べに出かけるような気取る仲ではなかったし、かといって棒蕎麦でしのぐような、形骸をなめる振るまいには、本能的に無関心であった。結局、蕎麦を「打つ」しかないだろうとなり、近くの三浦屋(ちょっとよさげのスーパー)に出かけ、パッケージ化されたそば粉を買い、普通の大きさのステンレスボウル、普通のまな板、普通の菜切り包丁のようなもので、切り蕎麦を始めて試みる機会を得た。

一時は、一人暮らしのアパートに、なぜか常設の蕎麦打ち台を設けていた時代もあった。とてもなつかしいと思えるほどに、時間だけはよく経過している。よくよく考えると、これほど求道的なたしなみであるはずの蕎麦打ちに、なんにも磨きが掛からず、なんのシンポもないまま、ほとんど自己満足のためだけに、蕎麦を打ち、闇雲に歴だけがかさんでいることに気がついた。そこに、お客さんに蕎麦を振るまって、さらには、きちんと参加費を取りましょう、の話が不意に起こり、この20年間、日陰で粛々と営まれていたテイタラクが、とうとう日向に干される事態に陥ったのである。30人前の蕎麦をその日に打つことも、また30人前のダシを作ることも始めてであった。

蕎麦打ちはなんとか事なきを得ることができた。一次会は終焉し、場をラクシアンの軒下から畳の間に移し、ふとこの会を傍観する。と、実に不思議な会であることに気がついた。私にとっては、何方も施主。自分の頭の中に、ある時期並列して同時に存在し、また時間は違えていても、それぞれそれなりの期間、私の脳を占めていた人々である。それまで脳内でのみ並列できたはずの施主さんたちが、眼前に現実として並んでいて、そして驚くべきことに、互いに歓談しているのである。脳内では、各々の方々は私と話すだけであって、施主さん同士の会話などありえなかった。脳内にしかなかった仮想の世界が、現実の世界に新しい繋がりとして造影された瞬間であった。

なにがしかの共通項で縛られ、他人との繋がりを拡げるSNSが生活の一部となり久しいが、この現実での、生身をもってしての不思議な出会いはまた格別、なんとも清々しい。。SNSは基本、参加者同士のコミュニケーションが旺盛に生まれることを望み、仕組まれ、その流量によって運営側の利益が得られるシステムであるから、結局情報量は膨大である。さまざまな共通項でくくられ、整理された、人脈のビックデータである。仮想現実ともいえる大きな人間の輪。それに対して、今日のこちらは、現実の、実に小さな共通項でくくられた、小さな集まりであった。

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