2015. 3. 1

第154(日)嗚呼、暮らしの物理学

先日、私の代わりに所員の木下君に、とある授賞式に出向いてもらった。彼の報告から、なかなか考えさせられるものがあり、特記。
その授賞式は、環境系アワード、簡単にいえば、地域性を考慮したデザイン、省エネルギーや、低環境負荷、といった、わかりやすく言えば「環境にやさしい」住宅をたたえる賞として、老舗の部類であった。当然、私たちの事務所も、その趣旨に反応し、自信をもって答えるつもりで、応募した。
建築デザインにおける環境工学、つまり、温度や湿度といった数字で表すことのできる、快適性を実現するための学問は、元は明治の建築学黎明期から存在していたようで、昭和初期には、建築計画原論などと称して、建築学全般の中での独立した学問分野として確率した。60年代ごろには「環境工学」というふうな工学的雰囲気をまとう改名を経ていて、私が大学で学んだ頃は、その名のものであった。21世紀を向かえると、なんとなく新しい世紀を迎えるがことく、急激にデザイン原理の新風として、取り上げられることが多くなることを実感した。2008年には、この手のデザイン潮流が結晶化した、「ハウジングフィジックス」という単行本が発刊され、素直にその書を手に取る。もはや環境工学という独立した学問というより、間口が拡がり、建築設計の原理そのものとなっていく勢いを感じた。これらのデザイン業界の動きは、私たち設計者としては、直近のこととして、まだまだ記憶に新しい部類であろう。
私は、このハウジングフィジックスという言葉は、なんとなくいいなと思っていた。「環境工学」というよりも「住宅における物理学」という方が、熱や、光、風、という自然の要素のとらえ方の割り切りがよく込められていると思い、私自身よく言葉に出した。が、私以外が口ずさんでいる場面をついぞ見ることなく、ましてや学生に至っては暖簾に腕押しで、却って伝わらず、この言葉は、普遍化の機会を得られなかったことを知る以外になかった。改名のステップを踏んだはずが、戒名を授けられてしまったか、そんな思いも立ちこめた。
先日の授賞式でのメインイベントである審査員と上位入賞者によるディスカッション。その中身を伺うに、どうも、このアワードが指している「環境」は、もはや「環境工学」や、「ハウジングフィジックス」を指し示してはいないようなのだ。「環境工学」と言っていた時の環境は、建築の内部空間を、つまり室内にいる時の人間を前提として彼を取り巻く建築を「環境」として指していた。直近のそれは、それより一段外枠の、住宅が立地している周辺、場所、都市を広く「環境」として扱っていた。つまり、建築(住宅)の存在を弱めて、室内の人間が、周辺環境とどのようなありかたが芽生えるか、ということのようであった。例えば、大もめの国会議論で、どこまでが集団的自衛なのかという議論と似ていて、「環境」のとらえ方次第で、どんなものをも包含できるし、あるいは切り捨てられるし、本当はそこだけでいくらでも議論が尽きないような壮大な前段に立ち返る姿勢とも受け取れた。
室外では、建築行為としてのフィジックスの効力は一段も二段も弱まる。「住居の物理学」は、やはり一気に盛り上がり、潮を引いてしまったのだろうか。ここからが、勝手な憶測になるのだが、一つは、フィジックス(物理)としての探求に限界が来たのだろうか。エアコンを用いず、自然の原理で建築を涼しく、暖かくすることの方法の探索が頭打ちになったのだろうか。あるいは、そのような自然の原理は、結局は、エネルギーを費やす冷暖房の効果に比肩することができず、結局は、実際の依頼主の関心事として育たなかったのだろうか。あるいは、とどのつまり(案外これではないかと思うのだが、)取り組む人間の関心事として、流行としての寿命が来たということなのか。
個人的には、こんなに実体的で、全ての人々の日常生活に実感されうる面白い物理学はない、と思うのだが、建築における議論のサークルから、放念されていくのは寂しい、と想ってしまう。デザインは多かれ少なかれ流行を孕んでいることは言うまでもないが、それにしても、学問の発信源付近がそんなに移り気でいいのだろうか、ともちょっと想ってしまう。

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