2021. 4. 4

第191(日)建築の第一寿命 その1

 

■歴史の疑似体験

先日、現帝国ホテルの建て替えの話が、ニュースに出てきた。そういう話が出てくると、建築に関わる者としては、またか、という思いがよぎってしまう。

1923ー68年までの間、東京の虎ノ門に現前していた、フランクロイドライト設計の帝国ホテルの克明なCG再現ビデオが、タイムリーにもyoutubeに掲載されていた。それはそれは克明で、建物の外観を巡りながらも、水面が揺らぎ、鳥の群れが戯れる様相まで動きとして再現されていた。これはもう、予算的には、内観までは作っていないだろう、外から眺めるだけで終わりか・・と思っていたら、とうとう内部にもその目線は進んでいったから、まるで実体験さながらの疑似体験であり、その分だけ、いろいろなことを思い巡らせる時間なった。

設計者にとって、パソコンによる3DCGは、物事が出来上がるまでの、自分と相手(基本的には施主さん、そして、利用者)を説き伏せ、事を運ぶための大事な「商売道具」に他ならないが、ここでは、失われた名建築を追体験するという、決して再生することのできないものを再生させる、まるで創造主であった。

架空の3D表現に過ぎなかったが、人間の造営ということの壮大さ、気高さのようなものを感じた。設計者としてのライトの力量に因るものに他ならないが、それにとどまらず、無名の工人達の魂が蘇るかのようでもあった。19世紀にジョンラスキンが振り返って中世建築を熱弁するがごとく、これらを作らせた時代背景、また多くの職人達の汗、あるいは犠牲的精神の結晶体であったことを、確信させるものだった。これだけの人間の意識が集め固められたものであっても、地盤沈下と老朽化を理由に、鉄球をぶつけて壊していくモンケン解体となった。今これがあったなら、相当に感動を得ただろう。こういうものが世の中に蓄積され、後世に伝わらない仕組みそのものを恨むほどである。CGの精度は、単なる歴史事実の再現を感心するにとどまらない、不穏な感情を湧き起こさせるものであった。

■人生50年?

ふと、近代の建築の寿命はどんなものだろうと思った。

ホテルオークラ 谷口吉朗 1962-2014 52才

都城市民会館 菊竹清訓 1966-2020 54才

出雲大社庁の舎  1963-2016 53才

大谷体育館 アントニンレーモンド 1955-1999? 44才

安川電機本社  アントニンレーモンド 1953-2015 62才

香川県立体育館 丹下健三 1964ー現在56才(保存?)

福岡相互銀行 磯崎新 -1971-2020 49才

大分県医師会館 磯崎新 1960-1999 39才

八幡市民会館 村野藤吾 1958-  2016の解体危機時58才 2018に保存決定

旧電通本社ビル 丹下健三 1967-  現在54才

代々木オリンピック体育館 丹下健三 1964- 現在57才現役

以下、ご長寿

東京中央郵便局/吉田鉄郎/1933-2008(かさぶた保存) 75才

旧丸の内ビル 桜井小太郎 1923-1997 74才

以下、短命

赤坂プリンスホテル 丹下健三 1982-2011 29才

旧東京都庁 丹下健三 1957-1991 34才

 

曲がりなりにも私も建築設計者の一人(ちなみに私が建築なら明日解体されてもおかしくない歳)、私自身の作ったものが、どのような寿命であるか、気にならないはずがない。だが、仮に名建築と称された建築物であっても、人間の寿命に及ばないというのなら、その社会構造そのものに、大きな不安がよぎる。建築は、いかなる大命をもってして、いかなる精神を入れ込んだものであっても、ちょっとばかり大きな消費財の一つとして、冷静沈着に廃棄される。あるいは舞台セットのように、ある演目が一頻りとなれば、片付けられてしまう。一部の建築関係者、愛好者のみが、その建築の素性を辿って消費財などではなかろう、と存在の異議を唱えるが、だからといって、急に文化財として読み替えてもらえるというものにはならない。

 

■ストックされなくていい?

人間は、動物と異なり、言葉を持つことによって、情報を共有し、集団的な解決力をもって、様々な危険を回避し、生存力を強めてきた。言葉=情報の蓄積と並行して、実物としての生産物が社会にストックされる。言葉のストックがあり、そして、物が一定の代謝をしながらストックされる=社会資本により、社会はより安定し、豊かに成熟していくはずであった。しかし、なにかの理由で、物はストックされるより、より早く入れ替わる方が却って世の中が安定する構造になってしまった。しかし、人間側にとっては当面の安定ではあったかもしれないが、環境=地球全体としては、バランスを逸していた。例えば、マイクロプラスチックが世界中の海に散在している問題は、プラスチックが、現代生活の隅々に行き渡っては捨てられるものとして世界レベルで野放図になってしまったことの結果である。こんな調子で物は全ての大きさの次元で、過剰生産と廃棄を繰り返す。それら実物の最大級として、建築、もしくは土木がある。こんなに大きなものまで、過剰な生産と廃棄が可能なのである。これらを実現させているのは、(人間の動物的欲求という大前提を除けば)科学技術というふうによく言われる。だから、人間は科学そのものをコントロールしなければならない、と言われるようになる。そこに相異はないにしても、もう少し、的を絞るなら、それはエネルギー、あるいは「電気」というふうに話を集約できるのではないだろうか。電気は、化石燃料や、原子力、その他自然エネルギーが元になっているが、端的に言えばそれらから生産された、最も応用性の高い電気と、幾ばくかの化石燃料と、それによって動く機械類が、全ての物の大量生産=大量廃棄を可能にしている、といえる。できるようになったから、する。モノはストックするよりも、より短いサイクルで入れ替わる方が、諸々上手くいく、という社会の安定の保ち方となる。⇨第150(日)ハムスターホイールライフhwl-1/

■第一寿命

保存運動が起こるような社会的評価が与えられた建築物を廃棄する持ち主は、それを実行するための理由付けを公言しなければならない暗黙のマナーがある。メンテナンスコストがかさむ、とか、単に老朽化と言ったりするが、つまるところは経済性が伴わない、ということに帰結する。その建築物が、その年齢で、その時を乗り越えていこうとするときには、必ずその時点での経済性が成立していない、という判断が付随する。そこから先は、只悪化の一途であるという読みも伴う。ライトの帝国ホテルの解体理由についても、東京の虎ノ門という好立地を考えるなら、当時の判断としてやむかたなし、と今振り返っても誰も疑問を挟むものではないだろう。しかしもし、仮に、今現在、ライトの帝国ホテルが、愛知県犬山市丘陵地の明治村ではなく、東京都虎ノ門に建っていたら、どうなっていただろう。ホテル業として成立するかしないか、私には精密な計算が出来ないが、1966年の解体当時よりは、もしかしたら、次元の異なる価値、そしてそれに伴う収益を見込むことはできなかっただろうか。

建物には、その時を越えられるかどうか、という年齢の節目のようなものがあるのではないか。第一寿命、第二寿命、本寿命ともいうべき節目。最初に訪れる寿命は、元々があばら屋でも無い限り、本当に物理的な寿命だというふうにはなかなかならない。壊して立て直した方が、いろんな意味(多くは経済的に)良くなる、という社会的寿命が最初に来る死神。名建築であれば、そこを越えた先には、越えたなりの次元の異なる価値を帯び始める、その節目。次に訪れる寿命は、もしかしたら、同じように社会的寿命=第二寿命であるかもしれないし、場合によっては、物理的にちょっと持たせにくい⇨大往生=本寿命であるかもしれない。いずれにしても、建築を迎えに来る死神は、風雪といった外来物というよりも、むしろ人間そのものであると言ってもいい。あるいは、無名の建築であっても第一寿命を越えられず、物理的寿命を全うできない状況は変わらない。むしろ、数多の建築物の廃棄スピードこそが、文化的側面を完全にスルーし、人類生存の可否に関与している。これらの建築群は、名建築のような、建築の支持者による、嘆願書の類い=保存運動などとは無縁である。もちろん、保存運動なる手法そのものが、国内においては、建築保存のための有効な手段になっているとはいいきれないが、それでも、建築を大事に使っていこうという眼差し、共有意識に働きかける役目を、最後に担うことになる。数多の無銘の建築物はそのような犠牲的役目さえ与えられず、誰の目にも留まらぬまま、只のモノに成り下がり、使い捨てプラスチックのように、只只、迷惑な塵屑と化す。

■廃棄される理由=社会的老朽化

銘の有無関わらず、建築物の所有者が、第一寿命の段階で、あくまで経済性を支点に、廃棄か利用を水平な天秤にかけることができるようになるにはどうしたらいいか。少なくとも既存の建築的な、建築業界側からのアプローチでは、限界である。例えば、相続のタイミングで、住宅が廃棄される。あるいは、土地+建物がお金を借りる担保になっていると、仮に立派でまだ十分に住める住宅であっても、相続税をそこから払う、あるいは、借金の返済のために、土地建物を売らなければならない。売った先には基本新築の市場しかないから、あえなく第一寿命でおしまいとなる。敷地の周りは鼻息荒い新築至上市場?で包囲されていて、相続人が生きている間だけ、あるいは、借金が返済出来ている間だけ、その土地が建物を守っている。一度、状況が変われば、舞台セット(建築)は引き摺り下ろされる。底地の持ち主が変わっても、建築は社会的存在意義を保ち続けられるような市場が成り立っていないことが、最終的に建築を裁いているけれども、少なくとも底地の転売を強制するのは、現行税制や、抵当権制度だということになる。

フラット35等の住宅融資の優遇制度に絡めて、住宅における物理的な耐久性を増す仕組みを国交省が敷いている。建物の廃棄が物理的な老朽化に因っている、という前提があれば、それは有力な手段であるかもしれない。しかしながら、解体時、構造物として老朽化しているものがどれほどあるだろう。近所で住宅が解かれる時は、努めて一部始終を目視するようにしているが、まだまだ10年20年先まで余裕で住み続けることのできる家家ばかりである。これは、十分に使い切った(儲かった)住宅だなというような、そんなものはめったにお目見えしない。戦前か戦直後ぐらいの木造在来のものが解体される時には、確かに古さを感じるが、しかしその場合も、逆に上手にリノベすれば稼げる臭いがプンプンしてくるものも少なくない。一軒の住宅が廃棄される理由の内訳には、物理的な老朽化とは言えない、他の要因が8割ある、といっても言い過ぎではないように思われる。多くは、建築側からコントロールできない、社会の仕組みの問題である。(廃棄・解体理由に関わる統計調査等に出会えず、そういう言い方しかできない)

近くの住宅の解体現場。木造モルタル2F建て。杉の野地板や、壁内の竹小舞土壁であることが、住宅構法の時代性を感じさせる。躯体の類いとしては、全く傷んでいないと言って良い。

その2につづく

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