2007. 12. 9

第20(日)クリスマスツリーになった家

自宅から事務所へ向かう道筋の突き当たりの家に、今年もクリスマスを祝う電飾が光りはじめた。その住宅は外観からはもう解らないが、3年ほど前の建設時には明らかに「パナホーム」の看板が掲げられていた。前面道路に面してカーポートが配置され、BMWと国産のRV車が並んでいる。おそらく発光ダイオードによる電飾キットは、波形や星形などにかたどられていて、ファサード(建築の正面)を包囲し、かなり大がかりである。妻入りに構えた家はまるで巨大なクリスマスツリーである。T字路の根本に位置しているので、300m先からもその仕掛けは十分に冬の夜をにぎわせてくれる。住人はどのような思惑で、これらのデコレーションを施しているだろう。もしかしたら、単なる自己主張かもしれないが、もしかしたら、地域の人たちがクリスマスというなんだか楽しげな気分に浸れるように、という社会的善意があるかもしれない。だが、クリスマスにも電飾にも反応しない人種が少なからず近くにいる。ここはラスベガスではなく、一地方都市のしがない住宅地なのだという感性がある。こうして目の当たりにすると、建築の外皮というのは個人の表現の自由だから、というだけでは許されない部分を含んでいることに改めて気付く。かつては、それは経済的な格差が生み出すいわばスラム的街区がいたしかなたくその範疇にあったかもしれない。だが現在は、それは経済的なものではなく、専ら表現意欲の仕業である。赤白ストライプの外観が問題視されている東京吉祥寺の「まことちゃん御殿」がその一例である。この経緯はニュースとなって公開されているから深入りしないが、とにかく人様の家であるとはいえその外観が特異なものであると、廻りの人々は黙ってはいないのである。もちろんそれは、自らの仕事にも似たようなことが発生する。すべての施主さんから事後報告をうけるのは、おしなべて家が注目を浴びてしまうことである。家の外でカメラの三脚を立てている人がいる、とか、無断で敷地に入り見学している人が居る、とか、遠足の集団が家の前を通り過ぎる時に、子供全員がこちらを見ている、とか。これらの報告は必ずしもネガティブな意見として受けたのではないが、だが、個人的な反省として、クリスマスツリーやまことちゃん御殿の目立ち方と同じであってはモトモコモナイと苦悩するのである。いろんな弁解?の仕方があると思うが、前者は建築をシンボルツリーや、看板広告と考えたときの主張、表現であるのに対して、後者は建築を建築のままとしてその理想を描いた結果に起こる現代一般解とのズレ、と言い逃れることができる。すなわちプロとしてのデザイナーがラスベガスと福岡市南区を読み間違えたとなると、後に仕事はない、ということである。建築=住宅像の一般とはそれほどに保守的である、と共に、私たちはこうした小さなズレを生じさせながら、竪穴式住居から現代住居へと導いてきたのかもしれない。こういった言い逃れは私一人のものでもはなく、建築としての住宅を目指す者の共通であろう。

« »