2023. 5. 14

第203(日)日常景観の喪失

日常景観の喪失

20年来、時折通り抜けていた、二股のところの鬱蒼とした小さな森が、突如なくなり始めた。天神と桧原を一直線に結ぶ市道(平和桧原線)、直前まで結婚式場が営まれてた森だった。理由は言うまでもなく、マンション建設。久しぶりに心の底からの憤りのようなものを感じた。そして、この話をしたら、異口同音に皆が尋常ならぬ感情を抱いていたようなので、ちょっとこれは書かざるおえない、と思った。

日常景観の利益、という言葉を思い出した。2002年、東京国立市の大学通りのマンション建設に関わる景観論争、その訴訟の判決文から生まれた概念だった。

「ある地域の住民らが相互理解と結束のもとに一定の自己規制を長期間続けた結果、独自の都市景観が形成され、広く一般社会からも良好な景観と認められて付加価値が生まれた場合には、地権者に法的な景観利益が発生する」(A-3判決)

これは、高さ44mで計画されたマンションが、銀杏や桜並木に合わせて20mに下げるという行政指導の効力を盾に地元の住民たちが景観保護を求めて争った事件である。結局は最高裁までいきつつ、全て原告の敗訴となるが、「日常景観」という概念が生まれ、直後は学問的、社会的な議論を呼び起こした。

(左)グーグルマップで拾った、直前の風景。いざ探すと、自身のアーカイブにも、ネット常にもない。これが「日常景観」 (右)ほぼ全ての木々が切り倒され、奥の隣地マンションがぽっかり姿を現す。

 

いつも通り過ぎる時にこんもりとした小さな森(アーカンジェルという結婚式場として敷地は営まれていた)に、気づかぬうちに癒されていたものが急になくなる、という喪失感と、国立のマンションのように、急に、大きな人工物が立ち上がり、その街並みを台無しにしていくというのとは、上記の判決の上では同じものとしては扱えないらしい。とはいえ、いつもの風景が、いつのまにか、いつものものではなくなると、多くの人々の心に動揺が走るという意味では、明らかに利益を享受していた日常景観と言えるはずである。

「日常景観の利益」の言葉を直接に知ったのは、先の判決文というよりもそれらを起点にした論考、社会経済学の松原隆一郎氏の新聞記事からであった。

「景観には変わると全体が別物になる中心部があり、我々は人生の記憶をそれを頼りに練り上げている。川のせせらぎや海岸線、小学校の校舎などは、平凡ながら多くの人にとってかけがえのない景観であり、急激な改変は多くの人に喪失感をもたらす・・・」2003/4/4 毎日新聞

(アーカンジェルの森は、まさに、変わると風景全体が別物になる中心)

同じ頃、建築史家の藤森照信氏も、建築が存続することの景観的な意味を旺んに、述べていた。日々のめまぐるしい変化の中で人間が健全に生きていく為に、変わらない風景のようなものが必要で、タイムスパンの長い建築はその役割を担っているはすだ、等。それと読み合わせると、松原氏の風景も同様に、ということで理解が進む。

上記松原氏記事では、末尾に、「今後景観問題は、この概念を基礎に論じられるべきである」と締めている。つまりは、だれもが認める特別な風景の類ではなく、地域の住民が、気づかない内に拠り所にしている普通の風景の継承を考えていこう、ということである。それから20年経つが、明らかなのは、「日常景観」は社会の規範のかけらにもなっていない、ということ。20年前、この言葉は、経済的利益とは異なる、換金できない価値ある景観の利益が得られるのだから、経済的利益との天秤をかけて、地権者は互いに自己規制に励みなさい、と促したのである。団子より花、的逆行動が、法的には弱いが、裁判所の判決文として注目を集め、一般社会に波及していくイメージがあった。コラムのタイトルも「見直される日常景観」であった。が、アーカンジェルの小さな森の現地権者の振る舞いを見るに、当時の先端的な考え方は、少しも浸透していないことがよくわかる。なにも、当該敷地の地権者だけが不道徳だというつもりもない。戦後から70年以上かけて、こうやって、平和の山は、純然たる木々の生い茂る山から、逐次切り開かれてきた。一方で、全ての地面が、地権者たちの都合のみによって扱い尽くす前に、さすがここはというところには、さすがに、このご時世になり、当事者(地権者)は公共的概念でもって、自制的になれるのではないか、という少しばかりの期待はあった。しかしながら、「さすがにここは」の感覚は、ここでは、微塵も感じられない。

 

高宮〜平和〜大池の丘陵地帯(鴻巣山の東峰)の開発過程4コマ

どんどん、話は大きくなる。エコロジー、ガイア、サスティナブル、脱炭素、SDGs、環境配慮の掛け声が、次々に生まれ出てくるのは、一人一人の人間が如何に変わり得ていないかを顕している。その時々のそれぞれの掛け声で、制度や、技術、商品、は生まれてくるが、本当にそれらは、解決の方向を向いているのだろうか?今の現代人のマインドセットのままで、地球に住み続けることは、相当に難しい、ということを、理屈か、直感か、あるいは誰かの受け売りでも、きっかけはなんでもかまわないから、実感するならば、小さな判断が、状況の改善へ向かうかどうかの二股になっていることに気づく。

アーカンジェルの森(もはや結婚式場アーカンジェルは、地域の日常景観に寄与していた英雄的営みかもしれない)の消滅に、一言では表せない違和感を感じる。憤りの類は、おそらく単純に、樹木たちがかわいそうではないか、あるいは単純に私が日々癒されていた森がなくなったではないか、といういわゆる主観に基づく抗議。そしてそれとは別に失望、というべき感覚があって、それは、私たち人間は、やはり生き延びれない、という共倒れの気配である。自然を結局は、自己都合でしか考えない、ということが環境問題の起点であり、かつ決着点である。

人間は皆、今日明日の飯の為になるのはどちらか?で判断するが、そのように動物的であることは仕方がない。動物的本能の上に、地球や宇宙のかたちを短時間で変えうる文明を持ち合わせている。だから、本能を超える何か(単純に言えばデリカシーのようなもの?)が必須な存在である。人間の持続は、自然科学に対する感覚はもちろん、哲学、倫理、道徳(引っくるめて宗教?)を同じ天秤に乗せた経済の感覚(仏教経済学?)も必要だろう。本来的に難しいかもしれない。でも、人間ならではの踏ん張りどころとも言える。

自分がアーカンジェルの森に、それらを一掃してマンションを建ててくれという依頼が来たら、どうしよう?。決して頼まれることはない、とわかっていても、そこを勝手に考え続ける。やってはいけないのではないか、と勝手に余計なことを考えながら、自身の仕事を続けていく。実は、そういう日々のバーチャルな葛藤が、結果的には、そのようなことには関わらずに、今日の飯を稼げるようになっているのではないか、などと憶測を張り巡らしている。

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