2023. 4. 2

第202(日)眺望レクチャー2(家庭料理の会)

眺望レクチャーとしては2回目。に少々力づくでテキスト化。

ことの発端は、平瀬ファミリーから予てより何かご飯の会をしましょう、ついでに頂上の家を見せて欲しい、となり、いろいろと奥様方の検討の末、今回は家庭料理の会、となった。数十年前?、御供所町の長屋にお住まいの佐野ファミリーにお邪魔して、雑煮の会なるものに参加した。各自の出生の地域の雑煮を再現して食べ比べ、という、小さな差異に宿る文化、とそこまで言うかの実は奥深さのある企画。今回は「ふだん自分チで作っている家庭料理を1〜2品持ち寄って」の縛り。細かいこと抜きにして、実にこれが楽しい。あまりにも心地よいのでそれはなぜか、というのを考えるしかなくなる。

メニューはだからそれぞれ自由なのだが、一つだけ、「卵焼き」を設定して観測定点をつくる。2012年に「ささやかな違いを楽しむ会」で桧山タミ先生を講師に迎えて、石臼挽きの小麦か、機械挽きかの違いだけの、梅ヶ枝餅を焼いて食べ比べる、という実験茶会を思い起こした。粉の挽き方の違いがこんなに違うものになるのかの驚きは今でも覚えている。自分は今回卵焼きは食べそびれたが、あの梅ヶ枝餅に近い感覚を得ただろうと、想像する。

 

百枝ファミリーの料理で面白かったのは、「初めてつくった家庭料理」、というここは禅道場かのヒネリの入った一品。初めてつくったものでも家庭料理と言えるか、の命題に、しばし頭を巡らせる。家庭料理とは、多分、そこにある材料でアドホックに作る料理、とも言えるのでは、という一定義がその場で創案された。いやこれは思いの外普遍的ではないか。家庭料理とは確かにそうである。完成形があって、resipiがあって、そのために様々が調達される営業用の料理に対して、家庭料理とは、ストックをいかに切り崩していくか、の逆アプローチのはずである。在るものに口を合わせる、それが家庭料理だ。

自分は大学時代、一人暮らしを始めたころ、ちょっと料理が面白いとハマった時期があった。一人で作って一人で食うサイクルの中で、ある日、天ぷらのネタと粉と油が翌日に持ち越してしまった。朝日を浴びるそれら残材の愛おしさに、一限のドイツ語をブッチして、朝から天丼をこしらえて貪る始末であった。これほどまでに多大なる犠牲を払わなければ、食材は合理的に消化されない?ことを学んだ。

家庭料理、と表向きはほんわりしたとっつきやすいイメージでありながら、ポテトサラダ一つとっても、いぶりがっこが入っていたり、と小さな驚きが咀嚼する口の中で大きくなる。逆に、鶏肉のオレンジ煮は、オレンチの料理だったが、人様がそこにそんなに驚くものかという驚きも発生する。1〜2品の料理をだんどりするだけで、ファミリー数で掛け合わせた数の皿が自動的に出てくる。ご飯一緒に食べようと言う時に、大枚をはたいて、美味しい料理と非日常の空間を味わうのもいいが、その正反対にも別種の愉しみが、確実にある。

一線で活躍する建築家たちに飯の話で終わるのはもったいなかったので、直近の力作を解説してもらった。大学の中でやったり、学生が同席していると、できない質問もできたりして、一味違う。場の性質が会話の方向定めるというポテンシャル。自分は、建築の話は用意していなくて、代打で子供に「プログラミング」の話をしてもらってかろうじて場つなぎした。もったいなかった。

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