2023. 9. 17

第205(日)身体を削る。

ダイエットや垢すりの話ではない。人間は、必死になにかをやり続けると、それは、物理的な身体を削ることになる、という当たり前なことにハッとした。

先日、鉄の中西秀明(第189日)さんの個展に、久しぶり出向いた。いつもながら、鉄で遊び続けたその造作物を見ながら、話はいろんなところを転々とする。

とはいえ、必ず溶接の話になる。ふと、溶接は目がやられるのではないかと尋ねると、それはもう宿命だという。自分はおそらくこのまま白内障になるのは間違いない、と覚悟されていた。作品の作り方においても、彼は、ガスや電気を用いて、金属に熱を与えるから、夏場の制作になると、地獄になるらしい。エアコンがあったらどうかなるというアトリエではないから、滝のような汗をかきながら塩をナメながらの、作業。近所迷惑すれすれの轟音をならし、火事寸前の火花をちらし、自分の肉に火の粉を受けながら、の作業。こんなやりかたをするから年齢が制作に影響してしまうが、そこを超えたいと、また思量が重なる。そのうち、何某ガラス工芸作家の話も引き合いに出てきて、彼に会うといつも顔が真っ赤っかっかなのだという。彼のガラスの吹き棒が、作品の細部を凝視するために60センチしかないらしく、炉の熱で顔が常に火傷状態なのだという。

そういえば、事務所の大工工事の多くをお願いしてきた大工さんには左小指がない。その前後も知っているが、あっけらかんとしている。大工作業に支障がないからか、あるいは、他人にはそういうふうに見せているのか、などとも勘繰るが、多分、それなりに心理の深いところで、そこを超えているのではないか、という雰囲気である。勝手にこちらが美化しているのかもしれないが、(実情は違っても他人を美化できるなら、それはそれで尊いのではないか)とにかく、彼は小指が短くなって、一層、良い大工になっていっているように思う。

上記の作品で吹き飛ばした鉄のクズを用いて、別のオブジェが生まれる。なんとも、その生い立ちが清々しい。こうして見ると、このオブジェはスケールを超えて地質そのものにも見えてくる。クズからミクロコスモスが立ち現れる。まさにアダム。

人間は体を使って、何かをする。多かれ少なかれ、物理的に消耗する。心の消耗の方が昨今の関心ごとであるかもしれないが、究極的には、心は、制御、というかその心を越えていく道筋はある、と思っている。大変難しいが方法がないわけではない。(心の修復についてはまた壮大な話)それに反して、物理的な体は、修復できないものは絶対できない。自己修復できる鬼のようには、人間はなっていない。方法がない。

 

僕たち設計屋はというと、今は、もう、図面描画はもちろん、文章も、調べごとも、他者とのコミュニケーションも、経理作業も、ほとんどの全ての仕事がパソコンである。(電話と巨匠スケッチだけでよければ、免れるが)そうすると就労時間イコール画面を睨んでいる時間である。自分は、もうそろそろ60代が見え初めてきたというのもあり、なんだか目を労らなければならないのではないか、と怯えながら、日曜日はなるべくパソコンを見ない、などという小市民的自制心が既に芽生え始めている。

でも、そういう、身体への労わりの類を超えた心境というのがあるのかもしれない。冬の凍える寒さ中での長時間の行による疾病への恐怖を捨てて行をし続けた道元禅師は、結果的に病気になどならなかった、という説話を思い出した。

自己の心身をケアしながら、良い仕事をしていく、という仕事人としての当たり前の現代感覚が、ややもすれば不動の正解、と考えやすいが、そういう合理的精神をも固定化してしまえば、またそこで、人として頭打ちになる、ということなのだろうか。

つくづく、人の道は、一本調子ではうまくいかない、面白みがある。

 

<中西秀明 現代彫刻展 9/6-23 WALD ART STUDIO 福岡市博多区千代>

 

中西さん、いつになくカッコつけているな、と思ったら、とんでもない誤解。ウェルディンググラス。溶接用のサングラス。これつけていても、目は焼けていく。

 

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