2023. 10. 9

第206(日)金峯山寺と修行僧-1

建築とそのアクティビティー、というと、今回のトピックからすれば軽く聞こえてしまうが、やはり建築をつくる人間と、そこで繰り広げる人間の行為は、背中合わせですれ違っていると思う。

もう30年以上前の話。私は大学の学部を卒業する時に、大学院との間に頂いた、わずかな春休みを使って、京都奈良の日本建築をめぐりたいと、見ておくべき建築を師に尋ねた。そこには、京都のものは一切なく、奈良より南のリストだった。それらをすべて、友人と2人でテント野宿で巡るという、実に若々しい建築行脚。毎晩の宿泊地は、用意されたキャンプ場などではなく、その日の行程で日が暮れて動けなくなった地点付近で、張れるところを探して寝床を立てる。海辺の砂浜であったり、シーズンオフのキャンプ場に侵入できればいい方で、雨が降り、橋の下の河原となってしまい、翌朝明けて目に映る光景に幻滅するような場所もあった。昼飯も夜飯も、店で食べた記憶がない。夜は、キャンピングクッカーで、ご飯を炊いて、調達した食材を調理して食べた。車は、姉夫婦にお願いして、一週間強、無償で借りた。お金をかけない豊かさというのがあるなあと、今から振り返れば、そう言える。

これらの建築リストの中に、「蔵王権現堂」があった。奈良県吉野町にある、正式には、金峯山寺である。役行者(小角)開山とされ、現在の本堂は1592年の建築。本尊が蔵王権現(インドに起源を持たない日本独自の仏様)が祀られているから、通称蔵王権現堂と言われる。建築を見る目線一般としては、そういったご本尊そのものに関心を寄せることは、ほとんどなく、いや、学生あがり程度であったことが、最大にわざわいして、やはり建築がどのようにできているか、というところにもっぱら目が向いていた。

「堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものはなく、すべて自然木を素材のまま使用している。材質も様々で、杉、桧、欅などの他に梨やツツジの柱もあり一定しない」

という、堂内の表示のとおり、この建築の最もユニークなところは、檜の製材を用いるべき堂宇の柱が、上記のとおり、無作為なのである。大学院手前のその時は、こういうことの面白さは、やはりあまり気づくことがなかった。まずもって、このような自由な柱の考え方が、いかにありえないか、ということ自体がわかっていないからである。「修験道がつくる木の建築は、一筋縄にはとらえられないなにかがある」と師が、ことある度に言っていたことを、忘れないではいる。蔵王権現堂は、そのことをもしかしたら、最も良く表している建築なのかもしれない、朧げながら心に留めつつ、その後、再訪を企てた。

初訪から14年が立ち、事務所のスタッフと、今度は自分の車で、1週間。今度は、テントではなく、サウナ施設。テントもサウナも今流行りのことを先駆けているようにも見えるが、ちょっと違う。最も安い過ごし方を考えたらそうなった、という消極的な理由しかない。サウナは、そこに併設されたレストルームで寝るためだった。もっとも、この旅も、一つでも多くを訪ねたくて昼飯を食べる時間がなくなり、いよいよ年末という季節に、ひもじさ混じりの凍えた体を毎晩温めてくれたのは事実だ。奈良健康ランド、ありがとう。今でも元気にやっているようで、当時は1800円ぐらいで、一泊できた。学生時代にもらった建築リストに、いくつか自分が仕入れた関心先を加えて、このランドを寝泊まりの起点にして、巡った。第63(日)初詣、修学旅行、建築の動機

二回目の蔵王権現堂。今度は、学生の時よりも、木造を含めて木のことは知っているつもりだし、少しだけ人生としての苦労は重ねたし、違う見え方がするだろうか、という期待があった。確かに、自然木の形をとどめた柱の異様な威容を、心の奥底に止めようと努めることはできた。樹種については、確かに陳腐化(経年変化)の様子がそれぞれに異なることは、見てとれるが、大体において、木材は、陳腐化していくと、当初の樹種の違いは、小さくなっていくから、この場合も、わかりにくくなっている、というのが正直なところだった。堂宇内部の薄暗い、なにか、おどろおどろしいものが、存在している、それだけは、再確認できたように思うが、なにか、わかったような気がしないまま、2008年暮れの再訪も終わった。

(つづく)

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