久しぶりに、漆喰と木の室シリーズの一室を仕上げた。2001年から初めて、もう25年、一発もの的な作品ではなく、一つの型をもった継続プロジェクトとして続けてきた。villaTAGAという築42年(1984年築)の木造の2室の「漆喰と木の室」化。賃貸の改修の面白み、というか優れた社会性と思われる部分を痛切に感じている。既存利用による、省資源、省エネルギー、もしくは、低炭素の概念は、リノベーション一般がそうであると言われている。しかし、リノベーションの中でも、中古賃貸住宅の改修は、最も廃棄が少なくて済む可能性があると思い始めている。事務所を開いて30年、年月に比例して、改修はしてきたが、改修とはいえ、便器などの陶器類を主に、まだ機能的にも意匠的にも使えるものを廃棄するシーンは、少なからずある。部分的な刷新だからこそ、新しい方が気持ちがいいものは、機能上差し支えなくても、廃棄される。
その中で賃貸は、たとえ「リノベ物件」として生まれ変わるタイミングであっても、入居者が入れ替わる原状回復工事の考え方で言えば、使われるものは何も新品でなくてもいい。前入居者が使っていたことは自明であるから、使えるものは、取り替えなくてもいいし、仮に取り替えたり追加したりするものがあったとしても、新品でなくても良い、ということになる。入居者を迎える清掃を前提の上、問題はその空間が行けてるかどうか、である。
照明器具や、各種金物、など、何かの改修で廃棄されそうになっていたものをもしストックしているならば、それらは、この賃貸で日の目を見ることができる。今回の工事では、直近で別の改修現場から回収されてきたポリカーボネード板の半透明板を所定の寸法に切断して、通風窓の目隠しに用いた。5ミリ板だから、それなりの値段だが、材料代は0円。他にも多くの、ストック材を用いることによって、改修は、隅々まで行った。それらは、モノの値段は無料であるが、取り替えたり、再加工したりする手間は、2室で50人工ほどになった。(左官工事含む)手間をかけることによって、廃棄されるものが、無理なく、むしろ、手間をかけるという今日的な希少性によって新たな空間づくりを支える。廃棄率という考え方の手前のもので、廃材利用性、廃品再利用性、といった今日的社会性とも言える可能性が、賃貸住宅市場におけるリノベ物件に内在している。
そんな、廃材利用の積み重ねの中で、賃貸だからこその、新しい材料で刷新される(すべき)工事もある。ふすまの張り替えである。2室共に、いくつかの既存の襖があり、それを袋貼り(枠を見せずに、全部紙で建具を覆い尽くす)で張り替えてもらう。いつもの大雅堂さんに電話すると、すぐに取りにきてくれた。が、話を聞くと、案外忙しそうなのである。案外とは失礼、襖のある家は、少なくなる一方で、張り替え工事そのものが、激減しているのではないかというイメージがあったが、直近の新築のマンションにも和室はあるらしく(結局なくならない?)また、福岡市内には、市営団地20万戸という、潜在市場があるという。それらから、一年を通して一定の張り替え依頼を受けていて、今、ちょっと盆前までの仕事が集中しているという。そんな時に、漆喰と木の室は、基本的に、襖を袋貼りに改修してきたから、それをお願いすると、ちょっと手間がかかるから、時間が読めないんですが、と返される。ならば、納期は約束しないでいいから、袋貼りでお願いします、とゴリ押しする。
2週間後、結局は、所定の時間内に、大雅堂親子は、新調された襖計8枚を持ってきた。
「要望通り、袋貼りにしてきましたよ。これもうできる人少なくなってきたんですよ。私81歳になりますが、息子がまだここらへんをできなくて」と、自慢と不安を同時に投げかけられる。この襖職人さんともかれこれ20年弱のお付き合いだったか。息子への技能継承が課題のよう。襖というインテリアの部位は、なんとなくのイメージに反して、機能的にも意匠的にも現代の生活(空間)にとって、まったくもって楽しいアイテムだと思っている。(障子戸も同様に)でも彼らのような、材料と技能に向き合える職人が居なくなれば、設計者としてのこちらの手が減ることになる。(私たちの手が減れば、世間の愉しみも減る、と大きく言ってみたい。)襖工事の需要はあるかと思える雑談だったが、果たして、現在81歳が持つ技能のクオリティーは、継承されるのだろうか。
襖職人は、続ける。
「あっちの部屋の開戸は、これまで張り替えてきた人が、紙をはがさずに、張り足し張り足しでやってきていたから、結局枠内がキツくなって、木枠を削り始めていました。私は、枠を外して、紙も外して、まっさらにして貼り直したので、開けにくかったのが治ったと思います。こんなことも知らない職人がいるんですねえ」
彼らとの、こういった技術に関わるちょっとした話がとても面白い。材料と技能の話ができない職人と話が盛り上がるはずもない。
翌日の今日は日曜日、といえば「日曜美術館」だが、現代美術家の杉本博司さんの写真展を巡る題材だったので、私は画面にロックされた。かれは、いつも一つ一つ自身のやることなすこと全部説明できる状態の人だが、今回の写真展は、「絶滅写真展」というタイトルどおり銀塩写真技術の葬儀の意味が込められているという。だからこの写真展の入場料は、入場料というより香典なのだ、と。
杉本さんもまた、すこぶる職人的な人である。さまざまな作品や手前の実験装置を自ら、作る。生業である写真技術も、現代のそれではなく、過去の伝統的な技術=銀塩フィルムを徹底的に習得した上で、そこから現代美術として、写真を送り出してきた。その彼が、自らマスターした歴史ある写真技術への継承?未来?を断念した、という宣言なのである。デジダルよりも、銀塩の方が、100倍以上の情報量があるのにと、悔しさをもって、しかしながら、少なくともこの現実は受け止めるしかない、と動かせぬ認識を楔(くさび)のように自ら打ち込んだかのようである。おそらく襖(ふすま)の話も似たり寄ったりなのだろう。