2026. 9. 20

第222(日)トラクターの世界史

トラクターの世界史 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち 藤原辰史 2017 中央公論社

藤原辰史さんのこの本は、昨年(2025)糸島の小さな神社で講演されていたその出店で購入した。「トラクター」は確実に近代史を語っていると思ったから、現場では迷わず手に取ったが、持ち帰り読み始めるまでに一年弱、かかった。

他でもなく著者は、この歴史を掘りつつ、功罪をあぶりだす。功罪の功は、いうまでもないこと。罪は「故障、事故、購入のための多額の借金、土壌の圧縮、(中略)そして何より、家畜と異なって、糞尿を排出しないため、大量の肥料を農場外から購入しなければならなくなり、農場内の物質循環を断つ役割を果たすことになった。」このあたりは、彼の名著「分解の哲学」の内容と重なる部分だ。トラクター史として、世界を先駆けたアメリカ、そしてトラクターを農業の集団化の後ろ盾としたソ連、ナチスドイツ、ポーランドから、イタリア、イラン、ベトナム、と来て、日本の歴史に触れている。田畑を耕すという人類共通の目的に対して、耕作地の土質や耕作物、耕作規模の違いによって開発されるトラクターが異なっているのは興味深い。そして、トラクターの世界史においては、資本主義や共産主義、ナチズムの壁は厚いものではなかったと、一旦締めくくられる。

読み過ごせないのは、それら壁=地域差のことではなく、一つの機械が人類の歴史を変えたことにある。蒸気機関による前身を経て、20世紀にはいってから内燃機関を動力源として現在に至るトラクター。この高々100年ちょっとの間に、世界の農業は牛馬の農業から、鉄の馬によるものに入れ替わった。もちろん、家畜への愛情といった情感レベルを含むさまざまな葛藤が、各地で激しい論議を巻き起こした。だから厳密には、農作業を担う牛馬が、世界の隅々まで鉄の馬にとってかわるまでには、20世紀後半にまで持ち越された。逆に言えば、それだけの葛藤がありながら、更新が進んだのは、労働力短縮のための、まさに馬力があったからに他ならない。

その代償を見過ごすわけにはいかない。本書では、「代償」は「社会的費用」と代替されている。少し新鮮だ。その出どころが以下に引用されている。(宇沢弘文「自動車の釈迦的費用」1974より)

自動車のもたらす社会的費用は、具体的には交通事故、犯罪、公害、環境破壊、というかたちでとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い。このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々は、わずかしかその費用を負担していない。

著者は、自動車の社会的費用の話は、そのままトラクターに当てはまるということで上記を引用している。もちろん、そうだろう。トラクターの事故は、あまりニュースとして聞こえてこないが、開発当初より一定の頻度で起こっていて、今も決してなくならないという。(日本は欧米に比べて、事故率が高いという)自動車による交通事故と同じなのだ。そして、トラクターは自動車とは別のフィールドで、同じく不可逆的な損失を及ぼしているようである。「ダストボウル」などのアメリカの土壌侵食や土壌劣化を生み出したトラクターと化学肥料のパッケージは、戦後アフリカに輸出されたが、そのことが、アフリカの砂漠化の一因になっているという。

ダストボウルで砂に埋もれたトラクター(本書p62)

トラクターは総じて人間を自由にした、といえるが、一方で、農業者を機械購入のためのローン返済に釘付けにする。日本では「機械化貧乏」という言葉が生まれた。高額な機械と燃料代を必須とする現代農業が確実に廃業動機を生み出している。

そしてICT化などの次世代農業における、今後のさらなる機械化は、いよいよ農民を農地から引き離す、切り離す、ことになる。農民のいない農地、農地にいない農民へ、は文化的社会的損失の類い、なのだろうか。

トラクター史は農業のあり方の過去未来を俯瞰できたが、当然ながら、建築という工業にもそのまま当てはめることができそうである。特に、「農民を農地から切り離す」あたりは、職人を現場から切り離す、ということと、なにも変わらない気がする。(フィジカルAIなど)設計者にとっては、はなおさら「現場不在を可能にさせる」機械化が完遂しようという勢いではないだろうか。当面の利益が万人にとって魅力的だから、なんと言おうと、機械化は進むのである。しかし最終的には、人間にとって、それをやっていて面白くなくなる、という文化を曰う以前の、人間の尊厳に関わるところに還ってくるのかもしれない。

本書の締めくくりの部分ではないが、とても示唆的で、人類共通の性のようなところ、最も根源的で、超えていくことの難しい部分に読み入ったので、引用する。

「本書が明らかにしたのは、機械の大型化に向かう『力』は、決して大企業の一方的な力などではなく、農民たちの夢、競争心、愛国心、集落の規制、大学の研究、行政の指導と分かち難く結びついた網のようになっており、だからこそ、根強く、変更が難しいのである。」

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