2007. 8. 12

第5(日)ゲニウス・ロキ-宝満山

 

あまりのつらさに山をのぼる意味を失いそうになった宝満山登頂から一週間が経ち、これはもう、体力において昔の若さに戻るまで登り続けるしかない、と開き直り、再び宝満山へ。今日では観光登山のための山ではあるが、それ以前は山全体が御神体としての信仰の対象としての山(竃門山)であり、その後修験道のための山として、いわゆる神仏習合の歴史を持っている。山中には五井七窟と呼ばれる山伏の修業場に始まり、堂塔や坊の跡、磨崖、城跡など山の歴史が実は、散在している。観光登山のルートは歴史の山の散策に沿い、通じている。

7世紀後半、心蓮という僧によって竃門神社を草創したという伝説がある。続いて役小角(634-701?)の霊場整備に始まり、803年には最澄が参籠し後に比叡山との繋がりが生まれ、太宰府政庁との繋がり、宇佐八幡との繋がり、もしくはシガラミを持ちながら、当然のことながらお隣の英彦山(日本三大修験の山)霊山との本社末社関係を持っている。鎌倉期の最盛期には、370の坊が存し、学問を専らにした衆徒方が300坊、山伏にあたる行者の70坊があったという。室町〜戦国時代には権力者により山城の争奪がくり返され、明治維新を迎えて廃仏毀釈(神仏分離令)により、それまでの堂塔や坊は一掃された。山伏の場としての山は、近代化を乗り越えることはできなかったということになる。

こんな予備知識は山歩きには不要であるかもしれない。宝満山がただ普通に澄んだ空気と美しい木々、頂上の爽快さを与えてくれるだけであれば、その歴史を紐解く動機も生まれないかもしれない。この山はその小振りさに反して、私自身含めて老若南予問わず多くの人々にリピートされている山なのであるが、もしかしたらその根強い魅力を歴史が答えてくれるのではないかと憶測する。

興味深い事実をもう一つ。最澄(767-822年)の参籠に始まり天台密教を基礎とした宝満山は英彦山と小石原(現東峰村)の地理的関係において、マンダラを想定していた。小石原と英彦山の間を胎蔵界、小石原と宝満山の間を金剛界マンダラとしているという。先に述べたとおり、小角の時代に霊場として整備が始まり、鎌倉末期に整ったとされる。現実の地理をマンダラ、つまり仏教的宇宙の真正なる構造に見立てて、そこを現実の人々のための道場とする、修験~密教に至る考え方の真骨頂が、この地に与えられていたということになる。山という単なる物理的な地形が霊峰という意味を持った場に仕立てられる。あるいはその歴史が重ねられることによって、場所の性格が醸成していく。文字や絵で描かれる歴史というよりも、時代時代の人々の思い、願いのようなものが、地面の内に踏み固められた歴史である。

宝満山のかつての建築群はもう今は見ることができないが、その性格を含めた場所だけは、存続している。後世の私たちは、なんとなくでしかないが、そこを目がけてか、リピートしたいと思う場になる。もし建築が残っていれば、建築も場所の根深い性格づけの一助となっていただろう。リピートされない場=また行きたいと思えない場が増え続ける現代に、この山歩きはヒントを与えてくれているのかもしれない。

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