2007. 8. 19

第6(日)岡本太郎のワビサビ

久しぶり街へ出て、本屋で買い物をした。帰り際の三越デパート(駅が2階に内蔵されている)にてあてもなプラプラしていると、9Fにて「北大路魯山人と岡本太郎」という展覧会の最終日という張り紙に出くわした。デパート内のこうした催し物は、その時の私のように思いつきの行動を誘引する。容易になびく自分に悔しさを感じながらも、とりあえずそれに従うことにした。
内容は、両者がいかに親交の深い関係にあったかということに始まり、次第に互いの作品が対峙するように配置されている不思議な間へと続いていた。もちろん、岡本の絵画彫刻と魯山人の器に通底する何かを見いだそうとする姿勢は、会の趣旨ではなかったかに思われる。浅薄な見方をすれば、作者同士がいかに家族的な親交をしたからといって、その作品まで親交していることにはならないわけである。
そんなことよりも、「実験茶会」という岡本が開いた茶会、というより超前衛のホームパーティーの事実の方が発見であった。坂倉順三の設計による当時岡本の自宅(南青山)にて、各方面の人たちを招来しての「茶会」。岡本は、当然と言えば当然であるが、格式や形式にもとづく茶会はもとより本意でなく、青青とした西洋芝の庭先で、アルミのヤカンを茶釜に見立て、自ら能楽の家元野村家から借り付けた付け焼き刃の袴姿にて茶をたて、茶会石にあたる彼の料理は、生卵のトッピングになる生肉、これらを客の魯山人や丹下健三などに喰わせたという。岡本自身は、形式としてのワビサビ文化を否定し、前例や格式を壊すなどと、語気を荒げながらの茶会であった。
ワビサビ文化の否定、という言句が気になった。そもそもワビ茶そのものの始まりは、結果として前衛に映るものであったはずである。実験茶会はそう言う意味では、見事に数寄であり、これこそ茶会だといってもいいと思う。ワビはもちろん茶が育てた文化であったが、概念としては、それ以前からあった。鎌倉初期の鴨長明はワビを自らの生活そのものに体現しようとした人物である。そのワビはさらには、仏教がもたらした無常観によるものとも考えられがちであるが、水尾比呂志によると、原始神道的ともいえるほど、日本人の自然観そのものであるとされる。ここまでワビの淵源をたどるなら、ワビという日常的な自然観が凝縮して作り上げた高度な哲学は、私たち日本人の共通の持ち物というように言えなくもない。だが実状からしてそうは思わない。生死を繰り返す自然、特にその表現力に裏付けされた日本の風土が人間に植え付けたワビという現状肯定の哲学は、今私たちに探し当てることは難しいと言わざる終えない。私たちが未だにワビサビと唱えること自体、すでに形骸である。岡本太郎は、そんなワビサビなど、言葉にも出したくなかったはずである。

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