2009. 1. 25

第63(日)初詣、修学旅行、建築の動機

およそ16年ぶりに奈良を巡った。前回は修学旅行、ではなかったが学部を卒業した折りに友人との古寺行脚、いってみれば建築学生としての修学旅行であった。京都は何かの用事が発生しないでもないし、1000年都としての魅力、世俗的な魅力あり、新幹線が停まると言う意味では立ち寄りやすいところであるが、奈良はそういった要素がことごとくない。もちろん、京都と奈良は少なくとも建築文化としても同じではない。土門拳の古寺巡礼を見てみると、奈良に始まり第五集にて京都で締める。奈良県から16点、京都府から11点が載っている。写真家杉本博司氏は「藤原期以前のものが好きだ」と述べてあった。我が師は「京都に行くなら奈良に行け」だった。建築家の柿沼氏も、古典といったら奈良だろうと。
ということで、16年前に見たモノをもう一度巡礼することになった。我ながら例年にないゴージャスな初詣になった。
1日目
圓成寺・・・創建は756年という言い伝えだが史実的には1026年、妙禅上人が十一面観音を祀られたのが始まり。ここは本堂もいいが、春日堂白山堂という対の神社がある。本来ならスクラップビルドされる春日神社の社殿が1226年の式年遷宮の際、永久保存が目論まれた。物理的に、日本最古の春日造りである。
東大寺・・・741年、聖武天皇の「国分寺建立の詔」「国家鎮守」のための総本山として大仏建立が目論まれた。但し前身は、金鐘寺(聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせた寺)
法華堂・・・744年ごろ、東大寺の一部、不空羂索観音を本尊とするから羂索堂、もしくは3月に法華会を行うから法華堂とも三月堂とも。
戒壇院・・・754年、鑑真和尚が日本で最初に着手した受戒のための場が縁起
新薬師寺・・747年、聖武天皇眼病平癒のために、光明皇后により建立
十輪院・・・元興寺の別院として創建か
元興寺・・・仏教伝来の始源に関わる、正式な仏寺の由縁を持つ。588年、飛鳥の地に北興寺(飛鳥寺)として蘇我馬子が排仏派の物部氏を制圧の後、創建
興福寺・・・710年、山階寺(藤原鎌足が大化の改新を成就する祈願寺として、あるい鎌足の病気平癒のために創建)が平城遷都に併せて移築され興福寺へ。
2日目
秋篠寺・・・776年、光仁天皇勅願~桓武天皇に引き継がれ創建
薬師寺・・・680年、天武天皇により発願~持統天皇により697本尊開眼~文武天皇時代に飛鳥の地~710平城遷都に伴い現在の地
唐招提寺・・759年、聖武天皇より寵招された唐の鑑真和尚の開祖。唐招提寺=「御仏の元に修業する人たちの場」という意味
法起寺・・・606年、聖徳太子が法華経を講説された岡本宮が寺に改められた。
法隆寺・・・607年、推古天皇と聖徳太子がなき用明天皇の御依願を継いで斑鳩寺(のち法隆寺)を創建
中宮寺・・・621年、聖徳太子の母穴穂部間人皇后によって創建

3日目
当麻寺・・・612年 用明天皇第三皇子麻呂子親王が聖徳太子の教えにより創建
三輪山・・・おそらく縄文時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。山そのものが御神体。
山田廃寺・・643年、崇仏派の蘇我氏石川麻呂の開祖
川原廃寺・・600年代半ば、創建の説、謎の大寺。飛鳥寺(現元興寺)、薬師寺などはその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。
石舞台古墳・・・蘇我馬子の墓であったとする説が有力

4日目
吉野の金峰山寺(蔵王堂)・・役行者600年代末、金峰山を道場とし修業し、蔵王権現を監督し、そのお姿を桜の木で刻みお堂を建ててお祀りしたのが始まり。
吉野水分神社・・・創建は不詳。「水分 = 水配り」の神の鎮座地
室生寺・・・山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒、その願解きのために興福寺の高僧修円らにより創建
今井町の散策・・古くは興福寺の荘園、室町時代に浄土真宗寺院を中心とする寺内町となり、環濠集落の構造を持った城塞都市として発展。大阪の堺と同様、自治都市として栄えた。

巡った古典建築と我々の時代が今建てている現代建築との乖離。それを、およそ1300年の時間の開きだということによって素直に納得していいものだろうか。そう理解する方が賢明に違いないが、そのままではどこかで先人達の建築精神に劣等感を感じながら建築を建て続けることになってしまうような気がする。手をこまねくばかりでは仕方がないので、まずは、それらの当面の建築の目的=建築の動機のようなものが現代とどう違うのかを見てみようと、巡った順番に各縁起を箇条書きにしてみた。拝観の際の小冊子に書かれてあるものをとりあえず信用するとして、いずれも仏寺であるから、仏教への帰依が土台にあるのは言うまでもない。だが、そういった信仰の動機には、人間の欲求が厳然としてある。東大寺の前身である金鐘寺にしても、室生寺にしても、また新薬師寺にしても、当時の天皇や皇族のその都度の疾病平癒を願うもの、言ってしまえば付け焼き刃の神頼みと言えなくもない。大仏建立という国家鎮守の目的は個人の病気よりは高次であるかもしれないが、政権維持の道具といってしまえば、それまでかもしれない。今は史跡でしかない山田廃寺や川原廃寺の敷地に立ち、鄙びた飛鳥の地に当時の仏寺群がたたずむ情景を想像することはできたが、それらが成立するためには、仏教の輸入を推奨する蘇我氏とそれを拒もうとした物部氏、つまり急進派と保守派の血なまぐさい争いを経なければならなかったということにも、触れてしまう。興福寺に至っては、藤原氏の氏寺であり、古代から中世に至る権力を行使するための焦臭い実質的象徴的建築だったと言っていい。仏寺とか古代の仏教(江戸以降の葬式仏教に対して)というと、現代人からするとややもすれば非日常的な崇高さが漂いがちであるが、さにあらず、仏教王国時代の人々もその思いの奥底は、今と変わらない欲得の世界であったということになる。
だが、古の仏教建築に人間の欲得を看破してみても、法華堂の内部空間、新薬師寺の内部空間、東大寺南大門や転害門の架構、当麻寺本堂の外陣、内陣、金峰山寺の内陣(今回は、脚を運ぶことはできなかったが、伊勢神宮の神域も同一例として挙げられる)等の持っている建築の力のようなものを理解したことになるだろうか。おそらくその力とは、言葉が扱いにくい範疇である。何度訪れてもいいもの、精神を障ることのない貴きもの、仮に薄暗くても清々しいもの、目では確認できない何かが存在する雰囲気、そんなことでしか言い表すことのできない根底を、もう今一歩、かみ砕きたいと思っているのだが。
今のところ、思いつきで言うことができるとすれば、「建築の七燈」(ジョンラスキン)における、犠牲の燈(第一章)ではないかと。手前の要約になるが、建築の質は関わる人間の犠牲の程によって決定される、というものだ。建築を学んだものなら皆知っているこの160年前の名著は、本来明言しにくい「良い建築の条件」なるものを、(ゴシック建築を中心に据えて)実に軽快に、しかし重量感を持って力説している。おそらく、古典にあって現代にないものは、一所にかけられた犠牲の程の差なのかもしれない。人はより少ない労力と材料で広さとか室温とかコストとかの論理的な必要を目下の目標として建築を改良してきた。言い換えれば、合理的精神を育んできた。結果、一つを造るために人間が働く量は時代を経るに付けて激減していった。さらに付け加えるなら、建ったのち、どれほどの人々がその空間にて、精神的な密度のある時間を過ごしたか、これが後の建築の力、もしくは空間の崇高さに関わっているなら、古今の差はここにもあると言える。例えば、仏像コレクター(時に仏像盗人)が祈り込まれた仏像を求めて、古物商の商品棚ではなく寺院の本堂を物色するように、モノや空間にはそれを用いる人々の想念が写し込まれる。そんなオカルティックなことはありえないと断言することのほうが、そろそろ難しい時代にさしかかっている。1000年以上の間、人々により祈り込まれた空間=人が純粋な精神で集中する(=祈り)空間がある種の場の力を作り上げていく。風呂に入る、料理を造る、食事をする、寝る、仕事をする・・は、人間の自らの存在にとっての従順な営為であって、犠牲とは言いにくい。もし「祈る」が、犠牲の行為、時間なのだと捉えると、その空間にはラスキンの言う名建築の燈火が灯る。巡った建築はそういう類のものであったような気がする。

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