2009. 7. 4

第78(日)「建築からモノへ」

学生あがりの修行時代中、今は大学の先生となったある友人との建築談義。彼は建築~都市工学の方向への視線、ある意味大文字の建築を思い描き、自分は建築から素材へという小さな思いを盾に、考えが正面衝突した。
彼は、言った。
「無垢の木フローリングにウレタンクリアを塗る?施主がそれを希望するなら、それに従えばいい」
「無垢の木にウレタンをペトペト塗ったら台無しだろう、それも含めてデザインではないか」という自分の意見を一蹴、
「そんなことは建築という全体にとっては小さい。もっと大きなことに力点を置くべきだ」

その他、裸電球を建築のデザインとするのはおかしい、等、自分が進行形で学んでいたデザインの指向が、彼によって一刀両断されていったことを今でも覚えている。もちろん、議論であるから友情のようなものとは隔離されている。だが、自分の建築的な理想が、建築的な教養を持っているはずの、しかも近しい友人に全く通用しないことの脆さを我が心中に憶念し続けることになった。
建築の全体に対する部分(あるいは素材)の位置づけは、建築の大勢(タイセイ)からすれば、多少なりとも主従関係であったろうことは、おおざっぱに歴史を思い起こしてみれば、なんとなくわかる。意匠と技術、と言うとき、素材は議論の一方にある技術論の、そのまた一要素である。どうしてその素材を用いたかなどは、現場と産地の関係や、工期、そして工人の技術のかみ合わせにより語られる。言い換えれば地理学歴史学的関係論であり、もっと簡単に言えば、その時の「都合だった」と言い尽くせてしまえるところがある。技術論自体は、意匠(便宜的に分けている)と同一のボリュームを持って壮大に語られるが、素材に関する云々は常にその傘下である。
一棟の建築は、主要な一つの、もしくは複数の素材の集積物であって、その集積が建築という全体を構築している。例えるなら村と民のようなものともいえる。一人一人の村民は帰納法的に集積され、その暁に村のイメージが語るに値するものとなる。部分を帰納させて説明される全体、そういう見方というか一方性そのものを疑うとしたらどうなるだろう。部分は全体のパーツではないという、あるいは互いを対置させない、互いに対象化しない、対称化しない見方。また例えば、私たちは「山」を平地の盛り上がった地形の一つとして特別に名指している。考えようによっては起伏があるということを「山」と言っているだけであって、本来は土や岩や木々の集積でしかない。はたして「山」という名の指すものの実体は存在するだろうか?という積年の問い=唯名論がある。唯名論は12世紀の西欧で起こったことになっているが、このあたりの議論は既に仏教哲学においてそれより以前に扱われているらしい。(哲学的偉業の類が芋づる式に参照されうるのかもしれないが、ここはスルーしたい。)例えば、村人たちの営みはあくまで村人たちの営みであって、美しい「ムラ」とか、貧しい「ムラ」とかの鳥瞰的判断はどこかに放念されるという見方。同様の疑いと目をもって建築を観ていくと、全体の部分でしかなかった素材のいかんが単独で直視され始めるかもしれない。機能とか、歴史的意義、様式、その他、全体としての建築に対して語られるべきものは留保され、素材だけが、そこにゴロンと在り、積み(組み)重なっている。その存在の質が単独で伝わってくる。
全体は不要だとか重要でないというのではない。全体も部分もある意味等価のようになって、建築を建築としてではなくモノとして観ることもできるようになった時、変わらないある一つの建築が、別の感性により別の論理により、その魅力を別の言葉で語ることができるようになるかもしれない。もしかしたら、建築の評価ランキングさえ入れ替わるかもしれない。
建築からモノへ、の視点は、だから、社会へと意識を外向するのではなく、左手の石片にほおずりし続ける建築デザイナーの趣味的愛好のように思えなくもない。だが、そういう行為が内向への一途であるなどとは、今だれも透視することはできないはずである。先の友人とは、最近になって同一の議題を蒸し返した。すると意外な答えが返ってきた。
「実は素材が街や都市をつくってきたんだ。これからはそういう考えが有効だと思う」

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