2007. 9. 2

第8(日)建築の生命観

手の間で「知恵の輪講座」と称する、いわゆる説法の場が始まった。余り詳しいことは聞いてはいないが、手先という身体的な感性の秀逸に敏感になろうとするその大前提を元に、取材と記録、催し物にて情報発信しながら、一方ではやはりそれらを相補する理論の肉声を必要と感じての企てだと理解している。私は、伊東啓太郎氏からやはりという指名を受けて、今日は事務所の休みのつかの間、3日後に預かった説法をゆっくりと練ろうと思った。
自分の生業としての設計業は、モノが建った、もしくは工事が終了した瞬間に全報酬をもらいうける権利を得る。もちろん、その後のなにがしかを保証するということを含めてである。しかし、自分で屋号を構えて以来、どうもよく解らなくて思いあぐねているのが、建築の生命観についてであった。生命観というとさも大仰だが、人間に例えるなら、死生観、つまり、免れ得ぬ生死の宿命から端を発する、生きているその者の哲学をあぶり出す行為だ。建築のデザインを評する世界は、出来た瞬間、もしくは、観察者がその建築を訪れた瞬間によって行われる。もちろんこういう世界に心身が興味を覚えたから、今此処に立っている。だが、出来た瞬間の評価と、その後の評価の大きなズレに興味を覚えるようになった。ガウディーのカサミラも、ミースのファンズワース邸も、いや、エッフェル塔も、ポンピドゥーセンターも、竣工直後のいざこざや不評があった、ということを責めたいのではない。それらは、長く深い社会的な賞賛を得るためには、決して本意ではないが、ある意味避けては通れない課程なのでは、と今のところ咀嚼している。一週間前に書き連ねたことの重複になるが、本当に正しいものを遂行するには、一瞬、大きな反感を買う「可能性がある」ということである。問題はどちらにも該当しない、最初からガンガンと世の中の賞賛を浴びるモノでもなし、ましてや、問題作そののち名作の道のりを得るのでもないモノを作ってしまうことである。つまり、ホドホドの満足は得られる(これは、当たり前である。どんなつまらない空間でも壁を張り替えたり、設備を新調したりしたら、こざっぱりするのと似ている。新築はなおさら、どんなものでも当人たちにとっては新鮮である。)が、そんなに深く長く世の中に愛されないモノを作ることへの恐怖心である。他人事とは思えない。
そこで、かねてより考えているのは、というより、辻説法の場を頂いたときに相応しいと思う題材として、建築のその後のことを切り出すようにしている。聞いてもらう方々には、明日の私のお客さんとしてではなく、今住んでいる建築を楽しめる人になって貰いたい、と思う方が、話がきな臭くならなくて済む。そういうふうに日々過ごしていると、そういうふうな人々に出会うことができるようになるから、世の中は不思議である。今日は、そんな人に出会うことができた。歳はもしかしたら20代、新居を構えるに当たって、マンションでも新築でもなく、古家付き土地を合計1000万円で購入し、これをいじりながら過ごしていきたいという。私への依頼は、劇的ビフォーアフターの匠としてではなく、専ら漆喰の塗り方であった。練った漆喰の販売と、お節介な塗り壁講座を商品にしている風変わりな設計事務所を彼らは身逃さなかった。瑞々しい若夫婦(私から見るとそう見えた)が、古家を購入して、これから、どこをこうしようああしよう、と相談しあっている風景を目の当たりにし、こういう人達は私がとやかく言わなくても、その家と共に楽しい生活を送る人たちなんだと、自然に親近感を覚えてしまった。

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