2010. 1. 31

第88(日)叱られる環境

母校の授業が終わった。毎週1.5日を費やしていた、ある種の使役もとりあえず、春休みを迎えた。そして、改めて設計製図という授業によって学生を指導していくことの難しさを感じた。週に一度、彼らが頭の中で描いたものの図面や模型を見て、それに良かれというアドバイスを加える。次の週、またその改良を加えられた図面と模型を見ながら、3ヶ月ほどを経て一つの課題が完成される。先生はなにをしたかというと、単純にいってしまえば、言葉を発したにすぎない。その言葉が有ったことによって良い結果を導いた、と言えて始めて先生としての役割を果たすのだが、その成果のところがわかりにくい。予備校のように、志望校に合格したなどという明確な結果が導かれれば別だろうが、殊、建築設計については、当面のその課題がうまくいったかどうかという近視眼で見ることさえできない。学生は様々な意見を同時に聞き取らねばならない混乱状態の中で、十数名の教師が言い放った様々な意見を聞き分けていかなければならないが、一人一人の先生からすれば、学生へメッセージできる言葉の字数たるや、微々たるものである。そこに、メッセージとしての最適解のようなものを包含せねばならない。そういう短いセンテンスを介して、役割を果たさなければ、建築の先生としては意味をなさない。政治家のように声高らかに言い放てば良いというものでもない。それは確かに体裁は保ったかもしれないが、問題は専ら学生に深く長く響き続ける文言をはけたかどうかだ。言い放つこちら側の「含み」が多くなければならない。そして彼らの作ってきたモノを見て、瞬間芸的に即興的にその「含み」を短い言葉に要約し、明確に伝えなければならない。危うい立場である。だからこそ、授業の後、自らの発言を反芻する。発言がうまくいったということはほとんどなく、大抵、心のなかで校正が行われる。文章であれば、このように上手く手直しできるのであるが、あの時の説明は今思えばイビツで不完全であったと、いつももどかしさを覚える。
昨晩は、ちょっとしたアクシデントがあった。三年生最後の課題講評会。同輩の若い先生が、会の最後に放った総評に物議が醸された。それは、授業後の大久保の韓国料理店にまでもちこされた。「ああいう発言はまずい。」i先生が唯一堰を切った。その後、齢40を迎える子持ちの若い先生はあらゆる言葉を用いてこっぴどく叱られた。その間、料理もビールもお預けとなった。口内はキムチで燃えていたが、場は凍った。そういう場はしかし、開き直って言うようであるが、貴重なのかもしれない。場を崩すi先生も好きで崩しているわけではない。製図授業の総括の日、先生方と今日は概ね(学生の)出来がよかったと愉しい場になりつつもあった。だが、講評する側のレベルを維持したい、若い先生をも導きたいということから、そういう苦言を呈せざるおえなかった。ついでに同じ立場の私もしかられた。「君のこの10年間行った勉強量より、私の10年の方がずっとたくさんの勉強としているよ」
殆ど全ての人間は、内にある漠然とした、単純な向上心だけでは、努力の原動力として限りがある。途中、ハッパをかけられる状況、修正されなければならぬ外的な状況に衝突する痛みによって、その都度に気持ちを正し反省しながら、精進を重ねていくものなのかもしれない。ならば、どういう歳になっても、叱られるというのは、貴重である。俗に言う「愛あるムチ」=存在を肯定されるゆえの、否定である。高名な僧侶が歳を取ってから、笛や太鼓などの、彼にとってはどうでもいいとも思われる技芸を始めることによって、自らを叱られる環境に置きつづける。そんな話を思い出した。

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