2008. 8. 3

第44(日)時計の針2

よく生きるということは、生きるスピードによってもたらされる、ということになっている。否、よく生きたいかどうかは実は関係がなく、なにかを取引する人間同士が互いに強いる。それは時流という川の流れそのもので、流されたくなければその川の流れから岸辺に上がる必要がある。皆が流れに従っているのに自分だけそうではないというある種の勇気、そして対称化されたメインストリームとの距離観も必要になってくる。
例えば鎌倉時代前期の鴨長明などは、厭世を実行した世俗の人であった。移り変わりの激しすぎる世の中に辟易し、その川岸へ身を引いた。つまり、地位や名声欲、物質欲等全てを捨てて、方丈にて山居した。人や情報とのコミュニケーションをほぼ絶った。確かにリアルタイムの世俗とは断絶したのかもしれないが、そのかわり方丈記をはじめとする名作を書き記すことによって、却って本質的に太く長く社会と繋がった。彼はその文才によって、只のホームレスから歴史的な存在への昇華を果たしたといえる。
「モモ」は時間どろぼう達を退治することによって、時間を節約し合理的に生きるという息苦しさから人々を開放した。人間にとって本当の豊かさは物質的な富ではなく、売り買いの出来ないはずの平穏な心なのだという。ところがそういうものが実際には(時間として)簡単に売り買いされているところに現代の病理を見いだしている。人間自らの欲得と本来の生きるスピード(時間)をトレードしてはならないというメッセージである。

急ぎ足の主流を果たして恨むべきか。
だとすれば、個々に備わっている本来の生きるスピードこそ尊重されなければならない。

また、禅寺に住み込んだことのある建築家にこんなことを聞いたことがある。
「一汁一菜の食事当番があるんですが、15分で作らないといけないんです。和尚さんはそれは見事な出来映えをホントに15分で・・。」
800年前、道元禅師は寸刻を惜しんで行に励むよう弟子達にくり返した。

時計の針に扇動されているのではないかという我々の日常。が、限られた時間を大切に用いるべき、は針のスピード云々に関わらず、時間のあるなしに関わらす、今昔相変わらずの命題なのかもしれない。身体の生命に限りがあるのだから当然であろうか。

2008/7/27 東北、鳴子町へ~ネット環境のない2日間

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